賽の河原 第4話 初めて「給料」のことを口にした日と、家族が出ていった夜

はじめて、給料のことで本気で口を開いた日のことを、正直に書こうと思う。

結論から言えば、その少しあとに妻と子どもたちは家を出ていき、
私は半年間の別居生活に入ることになった。
テーブルの上には、妻の名前だけが書かれた離婚届が置かれていた。


給料が「いつ」「いくら」か、わからない生活

前にも書いたとおり、私はずっと「まともに給料がもらえない生活」をしていた。

決まった日に、決まった金額が振り込まれるわけではない。
月末になっても何も言われない。こちらからも言い出せない。
ある日、父からポンと封筒を渡される。それが「給料」だった。

家業なので、住まいは会社の上の改装した部屋。家賃は0円。
衣食住の「住」だけは、どうにか守られていた。
だからといって、給料がなくていい理由にはならない。

生活費は、妻のパート代も含めてすべて消えていく。
当然、妻自身の我慢もどんどん積み重なっていく。
子どもたちはまだ小さく、これからお金がかかる未来がはっきり見えているのに、
家計はいつも崖っぷちだった。

妻はその不安を、自分のお腹の中に押し込めながら、毎日を回してくれていた。
一方の私はというと、

「会社を立て直さなきゃ」
「売上を上げなきゃ」
「借金を返さなきゃ」

と、ずっと“未来の会社”のことばかり見ていて、
目の前で限界に近づいている妻の心を、ちゃんと見ていなかった。


小さなきっかけと、大きな亀裂

きっかけは、本当にささいなことだった。
今思えば、「そんなことで?」と自分でも思うくらい小さなことだ。

子どもの保育園のお迎えのとき、
私が、ある「持ち物」を忘れた。それだけのこと。

でも、長年ひび割れていたガラスに、
たまたま小石が当たっただけで、一気に粉々になることがある。

あの日は、まさにそれだった。

妻は、もう限界だった。

言葉のひとつひとつがぶつかり合って、
感情のボタンが外れて、
これまで飲み込んできた不満や不安が、一気にあふれ出した。


親も交えた話し合い、そして「離婚届」

そこから、夫婦喧嘩が増えた。

テーマはだいたい同じだ。

  • 毎月、給料がまともに支払われないこと
  • 将来への不安
  • 子どもたちの生活
  • 「なぜあなたは転職しないの?」という問い

私は家業の内情を知っているがゆえに、
強くは言えず、かといって何も変えられず、
右にも左にも動けない状態だった。

結局、私の両親、妻の両親も交えて話し合いをすることになった。

今でも細かい言い争いの内容はところどころしか覚えていない。
ただ、空気が重くて、
誰ひとりとして笑っていなかったことだけは、はっきり覚えている。

その話し合いの結論は、平行線どころか「大暴落」だった。
株価で言えば、ストップ安だ。

話し合いのあと、妻は離婚届をテーブルに置いた。
すでに妻の名前だけが書かれていた。

妻は、子どもたちを連れ、義母と一緒に実家へ帰っていった。


絶望と、それでも続く「仕事」

その瞬間、

「ああ、もう妻とは会えないかもしれない」
「子どもたちにも、これから一緒に暮らせないのかもしれない」

と、本気で思った。

目の前の景色が、少し灰色になったような感覚だった。

それでも、翌日も仕事はやってくる。
お金の問題、売上の問題、借金の問題、家族の問題。
全部いっぺんに、私の肩の上に乗っかってきた。

正直、体も心も重くて動きづらかった。
それでも、当時30代前半という“若さ”に助けられていた部分もあると思う。
なんとか、歯を食いしばって現場に立ち続けていた。

もちろん、いちばん辛かったのは妻と子どもたちだ。


「給料」の話を、ようやく大人として口にした日

喧嘩の中で、何度も出てきたのは、

「毎月、給料がちゃんと支払われないのはおかしい」

という、ごく当たり前の話だ。

本来なら、これは私が
「社長(父)に対してはっきり言うべき話」だった。

でも、会社の内情を知りすぎていた私は、

  • 言ったところで、お金が湧いて出るわけではない
  • 売上が足りない現実も、借金の額も知っている
  • 自分も会社もギリギリなのを知っている

そんな理由を盾にして、長いあいだ沈黙していた。

話し合いの中で、ようやく父の口から

「月々いくらかは、必ず渡すようにする」

という約束が出た。

それは、本当はもっと早くに自分がしなければならなかった交渉だ。
でもそのときの私は、
「経営側」と「家族」のあいだで、どっちにも振り切れずにいた。

今も給料が遅れがちな現状を考えると、
あのときから本質的にはあまり変わっていない自分に、正直腹が立つ。


半年の別居と、毎回2時間の帰り道

そこから、私はひとりで暮らし、妻と子どもたちは実家で暮らす、
半年間の別居が始まった。

妻から届くLINEは、ほとんど「業務連絡」だった。
感情の温度が、あえてゼロにされているような文面だった。

私は仕事が終わったあと、ヘトヘトの体にムチを打って、
2時間ほどかけて妻の実家まで会いに行った。

仕事の疲れ、借金のプレッシャー、家族を失うかもしれない不安。
いろんなものを背負いながら、
それでもまだ「一緒に生きたい」と思っていた。

交渉は、一晩や一週間では終わらない。
結局、元の生活に戻るまでに、半年以上かかった。

こんな甲斐性なしの私を、一度は見限りかけたのに、
もう一度だけチャンスをくれた妻には、本当に頭が上がらない。
今でも、心の底から感謝している。


一度は立て直した。けれど、また大きな波が来る。

それから数年。
私たちは何とか一緒に暮らし、会社も少しずつ良くなっていった。

そして2019年。
会社は過去最高益を叩き出した。

口座の残高が、少しずつ増えていく。
通帳に数字が並んでいく。
あのときほど、「お金がある」ということに感謝した年はない。

「やっとここまで来た」
「やっと家族に少しは安心させられるかもしれない」

そう思った。

…けれど、神様は「超えられる壁」を用意するのが好きらしい。

2020年。
世界中を巻き込んだ、あのコロナショックがやってくる。

私たちの会社にも、また大きな波が押し寄せた。
賽の河原で、やっと積み上げた石を、
また大きな鬼が蹴り崩しにきたような感覚だった。

その話は、また次の回で書こうと思う。

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